小説『沈まぬ影』のPR動画を公開!
あらすじ
この物語 「沈まぬ影」 は、精神科医 藤田健一 の生涯を描きます。彼は患者の社会復帰を目指す理想主義者でしたが、病院経営の現実、病棟改修による借金、人員不足、閉鎖病棟の実態といった問題に直面し、次第にアルコール依存症に陥っていきました。
精神科医でありながら患者を根本的に治療できない現実、自身の依存症の問題、家庭内での暴言と問題行動、そして息子たちのトラウマを描きながら、崩壊していく家族の姿を綴ります。
キャラクタープロフィール
藤田 健一(ふじた けんいち)
年齢: 享年50歳
職業: 精神科医(民間精神科病院勤務)
性格: 真面目で理想を追い求めるが、現実とのギャップに苦しむ。患者の社会復帰を目指すが、病院経営の圧力に押しつぶされる。
背景:
- 病棟改修の借金、病床利用率90%の維持 という経営方針に苦しむ。
- 人手不足、閉鎖病棟の管理、隔離収容政策 など、精神医療の現実に絶望。
- ストレスから アルコール依存症 となり、家庭でも暴言や問題行動を起こす。
- 家族を傷つけながらも、誰にも相談できないまま病に倒れ、孤独に亡くなる。
藤田 真奈美(ふじた まなみ)
年齢: 40代
職業: 医療事務
性格: 優しく家族を支えるが、夫の変化に耐え続けた末に心が折れる。
背景:
- 夫のアルコール依存に悩み、息子たちを守ろうとするが、暴言や家庭内の混乱を止められず疲弊。
- 夫を信じたかったが、次第に恐怖と絶望に支配されていく。
- 健一の死後、彼の治療計画ノートを見つけ、夫の本当の思いを知り涙する。
藤田 健太(ふじた けんた)
年齢: 10代
性格: 真面目で母親想いだが、父の暴言や問題行動に傷つき、心を閉ざす。
背景:
- 父の変化に耐えられず、不登校 になる。
- 「なぜ父は酒に溺れ、家族を捨てたのか?」という疑問と怒りを抱え続ける。
- 父の死後も許せず、彼のアルコール依存の原因を最後まで知らない。
藤田 亮(ふじた りょう)
年齢: 10代
性格: 素直で父に寄り添おうとしたが、暴言に怯えて無口になっていく。
背景:
- 家庭の不穏な空気に耐えられず、学校でも孤立し、不登校に。
- 「お父さん、どうしてお酒を飲むの?」と問いかけても、答えは得られなかった。
- 父のノートを見つけ、「本当は優しい人だったのかもしれない」と思うが、許せず苦しむ。
序章
夜の病院は、静寂に包まれていた。
だがその静けさは、決して穏やかなものではない。
「先生……助けてください……」
「帰りたい……帰りたい……」
「お願いだから、この鍵、開けてよ……!」
――鉄格子のついた扉の向こうから、患者たちの声が聞こえてくる。
誰かに向けた叫びなのか、それとも、心の奥底からあふれ出た叫びなのか。
藤田健一は、廊下の片隅で立ち尽くしていた。
白衣のポケットには、カルテと診療記録。そしてもう一方の手には、小さなウイスキーの瓶が握られている。
誰にも見られていないとわかっていても、周囲を確かめる癖は抜けなかった。
健一はゆっくりと蓋を外し、琥珀色の液体を喉へ流し込んだ。
「……結局、今日もこれか」
鼻腔をくすぐるアルコールの香りに、心の奥の痛みがほんの少しだけ和らぐ気がした。
だが、その代わりに――目の前の現実は、ますます苦く、重たく感じられた。
目をやれば、閉ざされたドア。
鍵をかけられたままの病室。
窓のない部屋の中で、何年も社会から遠ざけられたままの患者たち。
かつての彼は信じていた。「精神医療には希望がある」と。
どんなに病が重くても、誰にでも社会復帰の可能性があると、本気で思っていた。
しかし今、彼が立っているこの現場では――
「治療」と呼ぶにはあまりにも遠い、ただの収容が日常となっていた。
「これは……本当に医療なのか?」
健一の喉から、誰に向けるでもない問いが漏れた。
だがその声に答える者はいない。
ただ、閉ざされたドアの奥から、再びかすかな声が響いた。
「……帰りたい……」
その声は、患者のものか。
それとも、かつての自分自身の声か。
健一には、もうわからなかった。
第1章:理想と現実の間で
藤田健一は、かつて希望を信じていた精神科医だった。
精神疾患を抱える人たちが、適切な治療を受け、家族や社会の中で再び笑顔を取り戻す――。
そんな当たり前の未来が、誰にとっても手の届くものになるようにと、研修医時代からずっと願ってきた。
なぜそこまで、心の病にこだわるのかと聞かれたとき、彼は答えをはぐらかしてきた。
けれど本当は、幼いころから見てきた家庭の記憶が、深く刻まれていたのだ。
感情の起伏が激しく、時に沈黙し、時に怒鳴る父。 そんな父に怯えながらも、時にヒステリックに泣き叫ぶ母。
家の中には常に緊張が漂っていた。
「ここに居場所はない」――
子ども心に、そう感じた日々があった。
そんな過去を乗り越えたくて。
自分と同じように、孤独の中でもがく人のために何かできたら――そう思って医師になった。
だが今、自分が立っている場所は、かつて思い描いた理想とはまるで違っていた。
会議室。
無機質なテーブルと書類の山の向こうで、理事長は淡々と語った。
「病棟改修で多額の借金が残っている」
「病床利用率90%を維持しなければ、病院経営は成り立たない」
「人件費削減のため、最小限のスタッフで運営する」
「退院を進めたところで、彼らを受け入れる社会がない」
「我々は慈善事業ではなく、病院経営をしているんです」
健一は、何も言い返せなかった。
本当は言いたかった。「そんなのはおかしい」と。
「長期入院は、患者のためじゃない」と。
でも、口を開けばその言葉はすぐに打ち消されるのだと分かっていた。
「先生、あなたの言う理想の精神医療は立派ですよ。でもね、それは理想だからこそ、現場を混乱させるんです」
冷たい笑みすら浮かべながら、理事長は続けた。
「我々は医療者であると同時に、経営者です。
患者のための医療をするのか、それとも、病院のための医療をするのか――
先生、あなたはどちらを選びますか?」
胸がざらついた。
(正しいことを言っているのは、どっちなんだ?)
(本当に、自分の信じてきたことは、現実を無視した幻想だったのか?)
…わからなかった。答えは、見えなかった。
言葉にならない思いが喉元までせり上がるが、声にならない。
会議室を出たとき、健一は背中にじっとりと汗をかいていた。
ワイシャツの襟が張りつく。呼吸が浅くなる。
見慣れたはずの病院の廊下が、どこか遠く感じられた。
まるで、自分の居場所ではないように。
その夜。
駅前のコンビニで、健一はいつものようにウイスキーの小瓶を手に取った。
冷蔵ケースの扉に映る自分の顔。
やつれた目。疲れきった表情。
「これが…医者の顔か?」
心の中で誰かがそう問いかけてくる。
レジに並ぶ手が、わずかに震えていた。
ほんのひと口だけ。
そう思って買った酒も、いつの間にか毎晩の儀式になっていた。
蓋を開ける。
琥珀色の液体が喉を通るたびに、現実の輪郭が、すこしぼやけていく。
(俺は…何のために、医者になったんだ?)
答えを出せないまま、健一はまた一人、夜の病院へ戻っていった。
第2章:閉ざされた世界
鍵がかかった鉄格子の扉を前に、藤田健一は足を止めた。
目の前には、ほの暗い廊下の先に続く、閉鎖病棟の空間。外の世界から切り離されたその場所は、どこか時間の流れすら止まっているかのように思えた。
「先生……ここから出してください……」
かすれた声が、鉄格子の向こうから響く。
患者の田村は、60代の男性。かつては地方の学校で教員をしていたというが、病を発症してから10年以上、ここに閉じ込められたままだ。
「もう、元気になったんです……こんなに長くいなければならない理由なんて、ないでしょう……?」
健一は、手元のカルテを見下ろした。確かに症状は安定し、社会復帰の可能性も示唆されていた。それでも彼は、何も言えなかった。
「病床利用率を維持しろ」――経営会議で何度も叩き込まれた言葉が、脳裏をよぎる。
「……すまない」
それだけ言って、健一はその場を離れた。
◆
職員用の仮眠室。蛍光灯の光がまぶしすぎて、目を閉じても落ち着かなかった。
「俺は、何をしているんだ……」
声に出すと、やけに虚しく響いた。
かつて彼が描いていた「治療」とは、こんなものだったか?
適切なカウンセリング、地域との連携、退院後の支援体制の構築……。それらはすべて理想のまま、現場では非現実的というラベルを貼られて捨てられた。
机の引き出しを開けると、そこには小さなウイスキーの瓶。
指先が自然と、瓶の首を掴んでいた。
「……まだ昼間だぞ」
そう思いながらも、蓋を開けて口をつけた。
アルコールが喉を滑る感触に、皮肉な安堵を覚える。
◆
ふと、電話が鳴った。
母の入居する施設からだった。
「先生、お母さまがまた転倒されて……」
「……わかりました。時間を見て、伺います」
通話を終えた手が、わずかに震えていた。
健一の母は、かつて精神的に不安定な人だった。幼い頃、理不尽な怒鳴り声や物を投げつけられた記憶が、今もフラッシュバックのように蘇る。
父の怒鳴り声に怯え、母の情緒不安定な言動に振り回された日々。 どちらも彼にとっては逃げ場のない恐怖だった。
「どうして、私ばっかり苦しむのよ……!」
そう泣き叫ぶ母の姿が、彼の中で今も消えない。
そして、自分もまた、子どもたちに同じような怒りをぶつけてしまっているのではないか――その思いが、健一をさらに追い詰めていく。
◆
夕方、病棟に戻ると、若い看護師が声をかけてきた。
「先生、田村さんがまた……ここから出してくれって。暴れたりはしていませんが、ずっと泣いていて……」
「……わかった。俺が話すよ」
病棟の扉を開ける。患者の目が、健一に向けられた。
「先生、お願いです……こんなところで人生が終わるなんて、嫌なんです」
その目には、怒りでも狂気でもない、ただ諦めかけた希望が浮かんでいた。
「田村さん……」
健一は言葉を探した。しかし、彼の口から出たのは、やはり現実に染まった言葉だった。
「……もう少しだけ、ここで様子を見ましょう。きっと、よくなりますから」
その瞬間、自分自身が医師ではなく、管理者になってしまっていることに、彼は気づいていた。
第3章:限界を超えた現場
病棟に朝が来る。だが、それは「始まり」ではなく、「続き」に過ぎなかった。
ナースステーションには、すでに夜勤明けの看護師が疲れた顔で記録をまとめていた。
「またAさんが暴れました。深夜2時です。拘束申請は……」
報告書を手渡された健一は、ペンを握ったまま、指先が止まった。
(これが、本当に治療なのか?)
怒鳴り声、金属の音、薬の臭い──
五感を刺激するもの全てが、彼に「ここが正気の場ではない」ことを告げていた。
—
数日前、彼は理事長室で再び経営陣に呼び出されていた。
「先生、拘束・隔離件数が多すぎます。これでは監査が通りませんよ」
「いや、むしろ少ない方ですよ。必要な対応を――」
「必要かどうかは我々が判断します。あなた、現場に感情移入しすぎてるんじゃないですか?」
その言葉に、健一は何も返せなかった。
(この人たちは、患者をリスクとしか見ていない)
—
その夜。
帰宅した彼は、真っ暗なリビングのソファに体を投げ出した。
棚の奥から取り出したウイスキーをグラスも使わず口に運ぶ。
すると、廊下から真奈美の声がした。
「……もう、そんな時間よ。少しは家族と食卓を囲んでくれない?」
健太の声もかぶさる。
「父さん、最近ずっとイライラしてるよな。…仕事のこと、家に持ち込まないでくれよ」
その瞬間、健一の何かが切れた。
「うるさい!! 誰が家族のために働いてると思ってるんだ!!」
声を荒らげると、健太も負けずに言い返した。
「俺たちは、父さんに怒鳴られながら生きていくためにいるんじゃない!」
健一は立ち上がり、声を震わせた。
「お前らみたいなガキに、何がわかる!! 文句があるなら出て行け!!」
真奈美が間に入ろうとするも、健一は壁を叩きつけるように拳で殴った。
その音に、亮がびくりと肩をすくめ、黙り込んだ。
しばらくして静けさが戻ると、健一はその場にへたり込んだ。
(こんなはずじゃなかった……)
彼の脳裏には、母が酔って叫んでいたあの夜の記憶が重なる。
怒鳴り声、沈黙、壊れた家族。
結局、誰かを守るどころか、自分が同じ傷を子どもたちに与えている。
(俺は……俺は、あの母と何が違うんだ)
—
翌日、彼は病棟で患者の叫びに対して、
無表情で「薬を増やそう」と言った。
看護師が不安そうに見つめる中、健一は一歩も動かず、処方箋にサインした。
心が壊れていく音が、誰にも聞こえない場所で、確かに鳴っていた。
第4章 家族の沈黙
「……健太、今日は部活のあと、友達と寄り道するって。夕飯いらないそうよ」
夕方の台所で、真奈美が静かに言った。
健一は応えず、箸を持ったまま、冷めかけた味噌汁を口に運ぶ。
その味は、もはや食事ではなく、ただの作業のようだった。
「亮は、今度の週末、部活の大会で泊まりになるんですって」
真奈美の声は穏やかだったが、どこか空気を探るような間があった。
それでも、健一は顔を上げなかった。
まるでその話題に触れたくないかのように、黙ったまま、茶碗の底を見つめていた。
しばらくの沈黙のあと、真奈美は小さく息をついた。
「最近、ふたりとも……あまり家にいたがらないのよね」
その言葉に、健一の胸が一瞬だけ痛んだ。けれど、それを表に出すことはなかった。
もはや、家族と会話を重ねるだけの余力も、自分には残されていない――そう思い込んでいた。
かつては、健太の勉強を見てやり、亮のサッカーの試合にはビデオカメラを持って応援に行った。真奈美と3人で、近くのスーパーに週末の買い物に出かけた日々が、遠い記憶の中で揺らめいている。
だが今、家族の会話は減り、目も合わせなくなった。
夕食のあとは、各自が自室へと消えていく。
テレビの音だけが、空虚に響いている。
健一は、冷蔵庫の奥に隠してあった小さな缶のハイボールを取り出し、音を立てないように開けた。
喉を通る感覚だけが、彼に「まだ何かを感じられている」という錯覚を与えてくれる。
——それでも、心は冷たかった。
その夜、亮がリビングの扉を少しだけ開け、健一の背中を見ていた。
ソファで缶を傾ける父。その姿を、彼は何も言わずに見つめ、静かにドアを閉じた。
その「沈黙」こそが、今の家族を象徴していた。
翌朝、真奈美はふと、キッチンに置かれた空き缶に目をとめた。
「……また、飲んだのね」
小さな声だった。けれど、それは確かな諦めの色を含んでいた。
健一はそれを聞いていたが、何も言わずにネクタイを締めた。
鏡の中の自分は、どこか他人のように見えた。
「行ってくる」
声をかけたものの、返事はなかった。
その沈黙が、彼の足をさらに重くした。
家族は壊れかけていた。
けれど、それを直視するのが恐ろしくて、誰もが気づかないふりをしていた。
それが「家族の沈黙」だった。
第5章 再生の兆し
病室の窓から差し込む朝の光が、カーテン越しにやわらかく広がっていた。
藤田健一は、ゆっくりと上体を起こし、深く息を吸った。
長く続いたアルコール依存の影から抜け出すため、彼は自ら入院を決めた。
依存症専門病棟でのリハビリが始まって、数日が経つ。
最初の頃は、腕の震えや不眠、焦燥感に苛まれた。
しかし今は、ようやくわずかに、自分の身体と心が戻ってきたような感覚がある。
廊下を歩く練習、グループセラピー、医師との面談。
一つひとつの行動が、彼にとっては「再び人間として生きるための儀式」のようだった。
「今は、ただ生きるために、選ばなければならないことばかりだな……」
ベッドに座ったまま、健一はぽつりと呟いた。
その日の午後、面会の時間になった。
扉が静かに開く。
現れたのは、息子・健太だった。
一歩、また一歩と近づいてくるその足取りに、かつての反発とは違う、ためらいが感じられた。
「……久しぶりだな」
健一が言葉をかけると、健太は少し戸惑いながら、椅子に腰を下ろした。
「元気そう……ではないけど、生きてるなと思った」
その皮肉のような一言に、健一は苦笑した。
「すまなかったな。お前にも、亮にも……ずっと、言えなかった」
沈黙が、二人の間に流れる。
健太は目を伏せながら言った。
「覚えてるよ。お酒に酔って、母さんに怒鳴った日。
俺が止めに入っても、目を見ようともしなかった」
「……ああ」
健一はゆっくりと頷く。
「言葉じゃ済まされないことを、してしまったと思ってる。
でも、今……できるだけのことをしたい。たとえ許されなくても」
健太の顔に、戸惑いと怒りと、それでもなお残る情のような表情が浮かぶ。
「言葉じゃ、済まされないよ。でも……言葉がなかったら、何も始まらないとも思ってる」
その一言が、健一の胸を刺し、そしてわずかに救った。
リハビリの帰り道、健一は病院の庭にあるベンチに腰を下ろした。
風が木々を揺らし、葉がかすかに擦れる音が心地よい。
「俺は、ようやく一人の父親になり始めたのかもしれないな」
誰に向けるでもないその言葉が、空に吸い込まれていった。
彼の目に映る空は、かつてより少しだけ澄んでいた。
第6章:沈黙の記憶
父・健一が倒れたあの日から、何度も夢に出てくるのは、あのときの声だった。
「お前は俺の期待を裏切った」
「そんなことで医者になれると思ってるのか?」
部屋の隅で膝を抱えながら、健太はただ俯いていた。
あのときの父の目は、まるで見知らぬ他人のようで、冷たく、怒りに満ちていた。
(もう、昔のことだ。そう思っていたのに……)
リハビリ施設で父に再会したとき、彼は別人のように穏やかな表情を浮かべていた。
それでも、健太の胸の奥に巣食っていた恐れは消えていなかった。
「俺は……父親を許せるだろうか?」
その問いは、いまだに答えが出ないままだった。
兄が父と再会することを選んだのは知っていた。
(俺には……無理だ)
亮は何度もそう思い、父の病室を避け続けていた。
記憶の中の父は、いつも不機嫌で、酔っては何かに当たっていた。
母に向けられた怒鳴り声。壁を叩く音。兄を責める言葉。
自分に何かを言うことは少なかったが、黙っているその背中が、子ども心に怖かった。
(俺は、ただ静かに暮らしたかっただけなのに)
それすら許されなかった過去を思い出すたび、亮の胸には苛立ちと無力感が込み上げてくる。
「亮、お父さんに会いに行かないか」
兄の言葉に、亮は戸惑った。
「何を話せばいいんだよ」
「別に、話さなくてもいい。顔を見るだけでもいい」
沈黙の中で、亮の拳がわずかに震えた。
「……俺、まだ怖いよ」
健太は頷いた。
「俺も、そうだった。でもさ、俺たちの中に残ってる『あの頃の父』が、今の自分を縛ってる気がして」
亮は少しだけ視線を逸らしながら、ゆっくりと頷いた。
第7章:赦しと涙の対話
午後の光が、カーテン越しにやわらかく差し込む。
ベッドに横たわる健一は、以前より痩せたように見えた。
点滴がつながれた腕、青白い顔。かつて威圧感すら放っていた彼の面影は、そこにはなかった。
病室のドアを開けた瞬間、健太と亮は言葉を失っていた。
父が眠っていることに、どこかほっとする気持ちもあった。
それでも――避けてきた時間が、ここで止まっているかのようだった。
「……来てくれたんだな」
かすれた声が、静かに部屋に響く。
健太が一歩、亮が一歩と近づく。
しばらくの沈黙のあと、健太が口を開いた。
「……体調は?」
健一は微かに頷いた。
「こんな体になって、ようやくわかったんだ。……俺は、間違えてばかりだった」
誰に言うでもなく、健一は天井を見つめたまま、言葉を続けた。
「仕事が忙しかったとか、病院のせいだったとか……ずっと誰かのせいにしてきた。けど、本当は、自分の弱さから逃げてただけだったんだ」
健太の目が、じわりと赤く染まる。
「俺……ずっと、苦しかったよ」
「お前のせいでうまくいかないって……何度も言われた。それがどれだけ胸に刺さったか、父さん、わかってる?」
健太の声は震えていた。
だが、涙を堪えるように、必死にまっすぐ父を見つめていた。
健一はただ、ゆっくりと頷いた。
「……ごめんな。取り返せないことばかり、してしまった」
その言葉に、健太の肩から、何かがゆっくりと崩れ落ちていく。
その横で、亮はただ、じっと黙っていた。
言いたいことは山ほどある。
それでも、今ここで怒鳴っても、何も変わらない。
心の底では、ずっと答えを探していた。
「俺……ずっと、怖かった」
ようやく出た声は、小さかった。
「母さんに怒鳴る声も、兄貴を責める言葉も、ぜんぶ聞こえてた。聞こえないふりしてただけで……」
健一の目から、一筋の涙が落ちた。
「亮……お前の前でも、父親でいられなかったな」
しばらくの沈黙のあと、亮は小さく息を吐いた。
「……まだ許せたわけじゃない。でも、ここに来たこと、後悔してないよ」
その言葉に、健一は目を閉じた。
「二人に、謝れてよかった……」
そのとき、健太がふと思い出したように言った。
「……あのさ、母さん、最近少し元気出てきてるよ。父さんが変わったこと、たぶん、伝わってる」
「母さんにも、会ってやってよ」
健一は、ゆっくりと瞼を開けた。
「……会いたいな。まだ……間に合うなら」
第8章:真実の告白
真奈美は、病室のドアの前で立ち止まった。
扉の向こうにいる人は、20年以上連れ添い、そして最も傷つけられた人でもあった。
何度も心の中で問い直す。「なぜ今さら…」と。
だが、健太と亮からの言葉――
「父さん、本当に変わろうとしてる」
「一度だけ、会って話してみて」
その言葉に背中を押され、ここまで来たのだった。
「……入るわね」
扉を開けた瞬間、ベッドに横たわる健一と、視線が交差した。
「ああ……来てくれたんだな」
その言葉に、真奈美は無言で頷いた。
部屋の空気は、張り詰めていた。
二人の間にある過去が、壁のように横たわっていた。
「……私ね、あなたのこと、ずっと憎んでた」
健一は驚かなかった。ただ、目を伏せた。
「飲んで帰ってきて、無言で風呂に入って……子どもたちが話しかけても、ろくに返事もしない。私に向かっては、お前が甘いから子どもがダメになるって。あれは暴力じゃなかったの?」
静かな声だった。けれど、その奥に積もった感情は深かった。
健一はしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「……仕事に逃げてた。自分が壊れてるのを認めたくなくて。全部、お前のせいにしてたんだ。最低だった」
真奈美の目に、涙が浮かんだ。
「子どもたちに、申し訳なかったわ。あの子たち、本当によく頑張ってくれた……あなたが崩れても、彼らが家を支えてくれた」
「その姿を見て、私もやっと、あなたに期待するのをやめたのよ」
「……でもね」
真奈美は、静かに息を吸った。
「今日、あなたに会って、少し思ったの。
もう一度くらい、話してもいいかもしれないって」
健一が顔を上げた。
「許してくれるのか?」
「……違うわ。許すって、簡単なことじゃない。
でも、憎しみを抱えたまま、あなたがいなくなるのも……それは、私の人生にとって、きっと後悔になる」
その言葉に、健一は目を閉じ、静かに涙を流した。
第9章 別れと継承
冬の終わり、空はどこまでも澄み渡っていた。
病室の窓から差し込む陽光は、穏やかで、どこか儚かった。
ベッドの上でまどろむ藤田健一の顔は、かつての険しさを失い、
まるで少年のように、静かだった。
――この日が、来てしまった。
医師から「今夜が峠かもしれない」と告げられ、
真奈美、健太、亮は静かに病室へ集まっていた。
誰も泣いていなかった。
泣いてしまえば、すべてが終わってしまう気がした。
だが、健一の瞼がゆっくりと開き、かすかに微笑んだ。
「……真奈美……来てくれたんだな……」
「ええ。……遅くなってごめんなさい」
彼女の声は震えていた。
心のどこかで、ずっとこの瞬間を怖れていたのだ。
「健太……亮……」
かすれた声が、子どもたちの名前を呼んだ。
一瞬、ふたりの身体が固まった。
何年も遠ざかっていた父の声に、どう応えればいいのか分からずにいた。
健太が一歩前に出た。
「……父さん……ずっと……許せなかった」
空気が凍る。
「母さんを傷つけたことも……俺たちに怒鳴ったことも……ずっと、恨んでた」
健一の顔が、痛みと共にゆがむ。
だがそのあと、健太はゆっくりと続けた。
「でも、それだけじゃない……」
「俺……ずっと、父さんみたいになりたかった」
「正義感が強くて、曲がったことが嫌いで……
だけど、うまく生きられない……そんな父さんの背中を、ずっと見てたよ」
沈黙が落ちる。
亮も、ぽつりと口を開いた。
「お酒の匂いが嫌いだった。
でも今なら、父さんが、どこまで追い詰められてたのか……少しだけ、わかる気がする」
健一の目から、静かに一筋の涙がこぼれた。
「……すまなかった。……父親失格だったな……」
真奈美が首を振る。
「そんなこと、ない。あなたがいたから、私たちはここまで来られた」
「たとえ道を見失っても、あなたは最後まで、私たちの家族だった」
健一は、震える手を伸ばした。
その手を、健太が、亮が、真奈美が、しっかりと包み込む。
「ありがとう……」
それが、彼の最後の言葉だった。
窓の向こう、夜明け前の空に薄明かりが差し始めていた。
黒々とした空の底から、静かに光がにじみ出し、世界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
真奈美はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
胸の奥に、かすかにあたたかな痛みが残っている。
それはもう、ただの悲しみではなかった。
過去は、消えない。
どれだけ祈っても、叫んでも、あの時間がなかったことにはできない。
けれど、それでも――人は前に進んでいく。
あの人の言葉も、傷も、涙も。
すべては、彼女の中に静かに残っていた。
それは、沈まずに心に灯る影――
苦しみの証であり、絆の痕跡でもある。
そして、彼女はその影とともに、生きていく。
エピローグ
あれから十年。
ある冬の日、真奈美は自宅の押し入れを整理していた。
年末の大掃除で偶然見つけた段ボール箱に、ひとつの封筒と、古びたノートが入っていた。
それは健一の遺品の一部だった。
あのとき、すべてを整理しきれず、真奈美はひと箱だけを押し入れの奥に仕舞ったままだったのだ。
「……こんなものが残ってたなんて」
埃を払って封筒を開けると、そこには健一の筆跡でこう書かれていた。
「母に認められなかったまま、父にも背を向けられた。だから俺は、自分を証明したかった。誰かに必要とされる人間になりたかった」
真奈美は、しばらくページをめくる手を止めた。
彼が見せなかった苦しみ。
決して語らなかった過去。
「……あなた、そんな思いを抱えてたのね」
声はかすれ、目頭が熱くなる。
彼女の中で、健一はずっと理想と現実に挟まれた不器用な夫だった。
でも今は違う。
その奥にいた、一人の小さな少年のような孤独を抱えた男の姿が、初めて見えた気がした。
「大丈夫。あなたが守りたかったもの、ちゃんと引き継ぐから」
その言葉は、誰に向けるでもなく、夜の静けさの中に溶けていった。
沈まぬ影は、確かにここにある。
それは、消せない過去でありながら、未来へとつながる光のでもあった。
そして、今日もまた、新たな一日が始まる。
あとがき
「沈まぬ影」は、精神科医としての使命と現実の狭で揺れ動く男・藤田健一の葛藤を描いた物語です。
彼のように、誰にも言えない苦しみや孤独を抱えながら生きている人は、決して少なくないと感じています。
医療や介護、そして家庭――人を支える立場にある者ほど、支えを必要としている。
この物語が、そんな見えない影に少しでも光を灯すきっかけになれば幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
あとがき(追記 令和7年9月21日)
この物語を書き終えて、静かにページを閉じるとき、胸の奥に残ったのは、決して癒えることのない「影」の存在でした。そして同時に、そんな影の中にさえ、ほんのわずかな「光」が差し込む瞬間があるということを、改めて感じました。
『沈まぬ影』は、精神科医・藤田健一の人生を軸に、崩壊と再生、そして声にならない痛みとどう向き合うかを描いた物語です。最初にこの作品を書き始めたとき、私の中には「なぜ人は壊れてしまうのか」「それでもなお、人は再び立ち上がれるのか」という問いがありました。
医療と人間のはざまで
健一は理想を抱いて精神医療の世界に飛び込みましたが、現実は過酷でした。過重労働、制度の矛盾、支援の限界、そして自分自身の弱さ。その中で彼は徐々に追い詰められていきます。彼の姿は、私たち誰もが持っている「理想と現実のギャップ」と、その痛みを象徴しているように思います。
彼が陥ったアルコール依存症は、単なる嗜癖ではなく、「声を上げられなかった苦しみの結果」でもありました。その背景には、幼少期の家庭環境、母との確執、自尊感情の欠如があり、それらは今の彼だけを責めることのできない深い影を落としていました。
家族という鏡
この物語には、もう一つの軸があります。それは「家族」です。
健一の妻・真奈美、息子の健太と亮。彼らは健一の変化と共に傷つきながらも、決して簡単に彼を見捨てることはしませんでした。だからこそ、その沈黙が一層重く、読み手の心にも残るのではないかと思います。
家庭内の暴言、すれ違い、無関心。そしてその向こう側にある「許したいけれど、許せない」という葛藤。この物語が描いたのは、ただの依存症患者の苦しみではなく、その周囲にある人間関係の「沈黙の連鎖」でもありました。
加筆修正にあたって
今回の加筆修正では、健一の出自家族(特に母親との関係)を深掘りし、彼の「心の土台」に触れる場面を増やしました。また、息子たちの視点から見た「父の存在」や「過去の記憶」、その再解釈のプロセスにも力を入れました。
単に説明を足すのではなく、心のひだに触れるような描写にこだわったつもりです。読者の皆様が登場人物と一緒に揺れ、迷い、それでも前に進もうとする姿を見届けてくだされば幸いです。
影の先にあるもの
「沈まぬ影」とは、完全に晴れることのない痛みの記憶かもしれません。けれど、だからこそ――その影に、わずかでも光を当てようとする姿が、物語の核であり、人間の尊さなのだと思います。
最後まで読んでくださった皆様に、心から感謝を込めて。
そして願わくば、この物語が――
あなたの心のどこかにある、「沈まぬ影」にも、そっと光を届けられますように。
風間 悠
コメント ご感想や応援の言葉は、次回作へのエネルギーになります! あなたのひとことが、作品を育てます