沈まぬ影 〜再生の光〜 ――崩壊した家族と心の傷を抱えながら、新たな道を歩む兄弟と、その周囲の人々の物語――

再生の光 小説

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登場人物

藤田 健太(ふじた けんた)

年齢: 30代前半
職業: 介護福祉士・デイサービス管理者
性格: 責任感が強く、人との距離をうまく取れない不器用な性格。
背景: 父・健一のアルコール依存による家庭崩壊を経験し、不登校になる。父の死後も心の傷は癒えなかったが、母・真奈美の再婚を機に少しずつ変化。現在はデイサービスの管理者として、利用者の人生と向き合う日々を送る。

藤田 亮(ふじた りょう)

年齢: 30代前半
職業: 介護施設の相談員(特別養護老人ホーム勤務)
性格: 穏やかで人当たりがいいが、自分のことを話すのが苦手。
背景: 幼い頃、父に愛されたいと願いながらも、暴言に怯えて育つ。介護の仕事を通じて、誰かを支えることで自分を取り戻そうとしている。兄・健太とは対照的に、利用者や同僚とすぐに打ち解けるが、内面には父への複雑な思いを抱えている。

山田 真奈美(ふじた まなみ)

年齢: 50代後半
職業: 介護施設の事務員(パート勤務)
性格: 優しく、包容力があるが、過去の苦しみを抱えながら生きている。
背景: 夫・健一のアルコール依存に苦しみながらも、家族を守り続けた。現在は、再婚した夫・山田涼太と共に新たな生活を築いている。息子たちが自分の人生を取り戻せるよう、そっと見守る立場にいる。

山田 涼太(やまだ りょうた)

年齢: 40代前半
職業: 介護施設の経営者(小規模デイサービス「希望の家」運営)
性格: 誠実で温和、どんな人にも分け隔てなく接する。
背景: もともとは会社員だったが、真奈美と出会い、介護業界に転職。現在は小規模デイサービス「希望の家」を経営し、地域の高齢者を支えている。真奈美の息子たちとは一定の距離を保ちつつ、彼らの再生を温かく見守る。

遠藤 志織(えんどう しおり)

年齢: 30代前半
職業: 介護福祉士(健太の職場のスタッフ)
性格: 明るく前向きで、利用者に対しても温かく接するが、芯が強く負けず嫌い。
背景: 介護の仕事に誇りを持ち、健太を何かと気にかける。同僚として信頼関係を築くが、やがて健太の過去を知り、彼の心に寄り添おうとする。

佐々木 圭吾(ささき けいご)

年齢: 50代
職業: 特別養護老人ホーム「緑風苑」の施設長(亮の上司)
性格: 厳しくも面倒見がいい。仕事にはストイックだが、職員の成長を何よりも大切にする。
背景: 亮に対しては高く評価しているが、「お前はもっと自分を出せ」と助言をする。彼自身も過去に家族を失った経験があり、亮に対してどこか父親のような視線を向ける。

序章 沈まぬ影と新たな道

夜の病院には、独特の静けさがある。昼の喧騒が嘘のように消え去り、廊下を照らす非常灯の明かりが、どこか異質な世界への入り口のように感じられた。

藤田健太は、その廊下をゆっくりと歩いていた。かつて父が働いていたこの病院。いや、正確には――父が崩れていった場所でもある。
壁に掲げられた医師紹介のプレートには、もう「藤田健一」の名はない。だが健太の脳裏には、白衣姿の父の後ろ姿が、何度も焼き付いて離れなかった。

「あの人は、本当は何を抱えていたのだろう――」

そう問いかける自分がいる。
父は精神科医だった。だが、その心を誰も癒すことはできなかった。家族として、息子として、何もできなかったことへの後悔。
あの夜、父が病院の非常階段でふらつきながら独り佇んでいた姿は、今でも夢に出る。

けれど――
健太は立ち止まって、静かに息を吸った。

「もう、同じことは繰り返さない」

医師ではない。けれど、自分なりに人の人生と向き合える仕事がある。今、彼は介護の現場で働いている。父のように「治す」ことはできないかもしれない。だが「寄り添う」ことなら、できると思った。

過去の影は消えない。
だが、その影を抱いたまま、前に進むことはできるはずだ。

そう思えたのは――
家族の再生が、少しずつ始まっていたからだ。
母・真奈美の笑顔、弟・亮との会話、そして、父のいない時間をそれでも歩み続けてきた日々が、健太を少しずつ変えていた。

もうすぐ、春が来る。
暗闇を抜けたその先に、再生の光はあるのだろうか。

健太はふと、ポケットの中の手帳を取り出し、そこに小さく書き加えた。

「過去のことは、今も心に残ってる。
 でも、だからって立ち止まってはいられない。
 傷ついたこの手で、これからの道をちゃんと築いていきたい。」

彼の歩みが、また一歩、未来へと向かって動き出した。

第1章 崩れた家族と心の傷

風が強く吹き抜けた春の朝。
藤田健太は、古びた木造アパートの階段をゆっくりと下りながら、胸の奥に微かな痛みを感じていた。外は晴れていたが、心の中には、どこか曇った空が広がっていた。

彼が父・健一を亡くしてから、もう十年が経とうとしていた。精神科医として多忙な日々を送りながら、次第にアルコールに溺れていった父。最後まで救いの手を伸ばせなかったことが、健太の胸に深い罪悪感となって残っていた。

思い出すのは、夜中に荒れた父の声。
「お前にはわからんだろ、こんな仕事の重さが……!」
そう怒鳴りながら、酒瓶を握りしめた姿。母・真奈美が静かに耐えていた背中。弟の亮が怯えた目で見上げていたこと。

当時、まだ高校生だった健太は、現実から逃げるようにバイトや学校に没頭した。家に帰るのが怖くて、コンビニの前で夜を明かした日もある。
「どうして、こんな家に生まれてしまったんだろう」
その問いが、ずっと胸の奥でくすぶっていた。

父が倒れた日の朝も、晴れていた。
夜勤明けで帰宅した母の慌てた声が、今も耳に残っている。
「病院から連絡があったの……お父さんが倒れたって……」

病室に駆けつけたとき、父はすでに意識がなかった。
機械の音が静かに響く中、母と弟と三人でその傍らに立ち尽くした。
医師から「今夜が峠かもしれません」と告げられた言葉が、胸の奥に重くのしかかっていた。

やがて、父の瞼がゆっくりと開き、かすかに微笑んだ。
「……真奈美……来てくれたんだな……」
「ええ。……遅くなってごめんなさい」
母の声は震えていた。

「健太……亮……」
そのかすれた声を、健太はいまも忘れられない。
十代の頃、父を恨み、恐れ、避けてきた。
けれどその瞬間――怒りも、悲しみも、すべてが胸の奥でほどけていくようだった。

健太は、父の手を握った。
その手から伝わる微かなぬくもりが、静かに消えていく。
「助けられなかった」
それが、健太の心に深く刻まれた傷だった。

窓の外には、夜明け前の淡い光が滲んでいた。
過去も、痛みも、あの人の声も――
いまも胸の奥で、静かに息づいている。

葬儀は淡々と進み、親戚たちは皆、「医者として立派だった」と口を揃えた。けれど、家族の誰も、その言葉に救われることはなかった。
あの日から、家族の会話は少しずつ減っていった。

弟・亮とは、言葉を交わす機会が減っていた。年が離れていたこともあるが、互いに抱える傷が違いすぎて、どこか距離があった。

亮は、父の暴言と家庭の空気に強く傷ついていた。
「兄貴は逃げられてよかったよ。俺はずっと家にいたから、あの声を毎日聞いてた」
そんな言葉を一度だけぶつけられたことがある。

健太は、何も言い返せなかった。
逃げたことを正当化する術も、残った者の痛みに寄り添う力も、自分にはなかった。

母もまた、傷を抱えていた。
健太が気づいたときには、母は必要以上に強く、感情を表に出さなくなっていた。父の死後、母は医療事務の仕事に就き、家計を支えるために懸命に働いていた。

「私たちは、もう前を向くしかないの」
そう言った母の瞳には、涙も怒りもなかった。ただ、張りつめたような静けさだけがあった。

けれど健太は知っていた。
母もまた、自分を責めている。助けられなかった夫を、守りきれなかった子どもたちを、そして、自分自身の無力さを。

この家には、言葉にできない傷が多すぎた。
誰もが何かを抱えながら、それを口に出せずにいた。まるで、音を立てずに沈み続ける船のように。

けれど、健太はふと思った。
「いつか、この沈黙を破る日が来るのだろうか」と。

家族は崩れた。心もまた、壊れかけていた。
それでも――
この影の中で、何かを変えたいと思い始めたのは、この春が訪れたからかもしれない。

そしてそれは、次第に「再生」への一歩へとつながっていく。

第2章 取り残された兄弟

静まり返ったリビングに、壁掛け時計の針の音だけが響いていた。
健太はソファに背を預け、ぼんやりと天井を見上げていた。
目の前には、空になった父の座椅子だけがぽつんと残っている。そこにもう声は届かない。返事もない。

——本当に、父はもういないんだ。

わかってはいるのに、どこかで実感が湧かない。
少し前まで、そこに座っていたはずなのに。

亮はと言えば、自室にこもったまま出てこない。
葬儀の翌日から、ほとんど顔を合わせていなかった。無理もない。まだ高校生なのだ。心の整理がつくはずもない。

キッチンからは、母が食器を片づける音がかすかに聞こえてくる。
あの母が、まるで別人のように淡々と家事をこなしている。泣くでもなく、崩れるでもなく。
まるで、感情をすべてしまい込んでしまったように。

健太はゆっくりと立ち上がり、亮の部屋の前で足を止めた。
「亮……飯、食ったか?」
返事はない。
ノブに手をかけかけて、結局そのまま引っ込めた。

食事は母が用意している。
亮が食べたのかどうか、それはもうわからない。
それでも——家族の形だけは、まだどこかに残っている気がした。

数日後、母はパートに出るようになった。
医療事務の仕事だと聞かされたが、細かい話はなかった。
「家のことは任せるわね」とだけ言って、静かに玄関のドアを閉める。
その背中が、どこか遠く感じられた。

健太は、家に残された空気の重さに耐えられず、近所の図書館や公園に出かけるようになった。
静かな場所にいると、父の怒号や、病室でのあの弱々しい声が、ふと頭の中に蘇る。

——俺は、あの人に何を残せたんだろう。
——本当に、わかりあえた瞬間なんてあったんだろうか。

問いかけても、答えは返ってこない。
兄弟は、同じ家にいながら、それぞれ違う深さで喪失の中に沈んでいた。

何かを話さなければ。
支えあわなければ。
そう思いながらも、言葉にならない気持ちだけが、心の奥で渦を巻いていた。

第3章 介護との出会い

 亮は静かにエプロンを外し、洗濯機の前に立ち尽くしていた。まだ湿った布の匂いが、彼の鼻をくすぐる。母と二人、慣れない家事を手探りでこなす日々にも、少しずつ慣れてきたように思えた。

 けれど、どこか虚しさが拭えなかった。
 父がいなくなった家には、日差しは届いても、温もりのようなものは薄れていた。健太と母と自分。三人の会話は減り、空気の流れも鈍っている。

 そんなある日、健太がぽつりと口にした。

「なあ、介護の仕事……やってみようかって思ってる」

 夕食後の食器を片づけながら、健太はごく自然に言ったつもりだったのだろう。けれど、亮の耳には重たく響いた。

「介護? なんで?」

「……ばあちゃんのとき、もっとできたことあったんじゃないかって、ずっと思っててさ」

 思い出すのも、苦しかった。
 祖母が亡くなったあの日。体調の悪さを訴えていたのに、父も病院も本気では取り合わなかった。家族の誰もが、あのときの沈黙に加担していた。

 後悔は、それぞれの胸に沈んでいた。
 そしてその悔いが、健太を動かしたのだろう。

 亮はすぐには返事をしなかった。だが数日後、ふと職場の求人票に「介護職員募集」という文字を見つけたとき、無意識にメモを取っている自分がいた。

 面接を受けたのは、その週の金曜日だった。
 福祉用具の並ぶ部屋で、年配の男性が笑みを浮かべてこう言った。

「経験がなくても、人と関わるのが好きなら大丈夫。利用者さんは、こちらが思うよりずっと人の心を見てますから」

 不思議だった。あの言葉に、なぜか少しだけ救われたような気がした。
 どこかで自分の居場所を探していたのかもしれない、と亮は思う。

 初出勤の日。
 利用者の車椅子を押す手が、ひどくぎこちなかった。表情をどう作ればいいのかもわからない。

「ありがとうねえ、若い子は気持ちがいいわ」

 そう言われて、戸惑いながらも笑った自分がいた。

 少しずつ、誰かと向き合う感覚が戻ってくる。
 壊れたままの家族の中で、凍ったようになっていた心が、ほんの少しずつ、動き出しているような気がした。

 帰宅すると、健太が冷蔵庫を開けながら訊いてきた。

「どうだった?」

「……思ったより、疲れた。でも悪くなかったよ」

 その言葉に、健太は小さく笑った。
 それだけで、何かが繋がった気がした。

 二人で、もう一度始めてみようと思った。
 誰かを支えることは、自分たち自身を支えることでもある。
 そう思えた初めての夜だった。

第4章 父への距離

真冬の風が頬を刺す夕方。
健太はデイサービスの玄関先で、利用者の乗車を見送っていた。
吐く息が白い。ふと耳に入った名が、心の奥を揺らした。

「藤田先生っていうお医者さん、昔はよくうちにも来てくださってねえ」

車椅子に座る男性利用者が、穏やかな笑みを浮かべていた。
健太は手袋の中の手がじんわりと汗ばむのを感じた。

「……父のこと、ですか?」

「そう、あの先生だよ。ほら、私が若い頃にちょっと鬱で通っててね。いつも手紙をくれる人だった。薬のことだけじゃなく、近所の桜が咲いた話とか、そんなことまで書いてあって」

男性は遠くを見るように目を細める。

「自分のことはボロボロでも、人には希望を残そうとしてた人だったよ」

健太の胸に、父の知らない顔がひとつ刻まれる。
あの怒鳴り声の裏に、こんな人がいたのか。
言葉を返そうとしたが、喉の奥で消えていった。

「……ありがとうございます」

それだけ言うと、健太は男性の肩にブランケットをかけ、車に押し込んだ。
夕陽が彼の横顔に淡く差し込む。胸の奥に、長い間固まっていた何かが、ゆっくりと動き出していた。

同じ頃、亮は早番を終えて帰宅していた。
母・真奈美が押し入れの前で古い段ボール箱を抱えている。

「ちょっと手伝ってくれる?」
「うん」

二人で箱をテーブルに置くと、埃がふわりと舞った。
真奈美はマスク越しに微笑む。

「十年もそのままだったのよ。年末だし、いい機会かなと思って」

封を切ると、中から古びたノートと封筒が出てきた。
亮は思わず息をのむ。そこに見慣れた父の筆跡があった。

「母に認められなかったまま、父にも背を向けられた。だから俺は、自分を証明したかった。誰かに必要とされる人間になりたかった」

ページの途中にそう綴られていた。
亮はめくる手を止め、指先で紙の感触を確かめる。

(俺たちを傷つけた父しか知らなかった。でも、ここにいるのは……弱い人間としての父だ)

隣で真奈美が静かに呟く。

「……あなた、そんな思いを抱えてたのね」

声はかすれていた。亮はそっと母の肩に手を置く。

「母さん……俺、仕事の上司に『もっと自分を出せ』ってよく言われるんだ。佐々木さんって人なんだけど、あの人も家族を失って介護の道に来たって話してて……父さんと同じ目をしてる時があるんだよ」

真奈美は目を見開き、うなずいた。

「そう……そんな人がそばにいてくれて、よかったね」

亮はノートを閉じる。
その瞬間、父の声が頭の中で少し遠くなったように感じた。
憎しみや恐怖ではなく、別の響きで聞こえてくる。
その距離が、ほんの少しだけ近づいた気がした。

夜遅く、健太が帰宅した。
リビングでは亮がノートを膝に置いている。

「それ、父さんの……?」

「うん、母さんが見つけた」

健太は椅子に腰を下ろし、兄弟でページをめくる。
そこにあったのは、家族を守りきれなかった一人の人間の記録だった。
二人は顔を見合わせる。

「俺たち、もっと早く知っていれば何か変わったのかな」
「でも今、知ったからこそできることがあるんじゃないか」

亮は小さく笑い、うなずいた。
その笑顔は、久しぶりに幼い頃の亮を思い出させるものだった。

押し入れの奥から、過去がそっと顔を出す。
けれどその手触りは、もう痛みだけではなかった。

第5章 揺らぐ言葉、灯る記憶

 夕暮れのデイルームには、どこか寂しげな温もりが漂っていた。

 藤田亮は窓際のテーブルに座り、利用者の横山さんの話に耳を傾けていた。横山さんは、昔の子育ての思い出を語っていたが、その目はどこか遠くの景色を見つめているようだった。うなずきながらも、亮の意識は、ふと別の記憶へと引き戻されていた。

 ――「亮、おまえには無理だよ。人の感情なんて理解できるような人間じゃないんだから」

 父、藤田健一の声。何度となく浴びせられたあの言葉。

 「すみません、ちょっと失礼します」

 横山さんに軽く頭を下げ、亮は一度、スタッフルームに戻った。無意識に左のこめかみを指で押さえる。

 (まただ……。この言葉が、何年経っても、消えない)

 そのとき、スタッフルームにいた佐々木圭吾施設長が声をかけた。

 「亮くん、大丈夫かい? 顔色が優れないが」

 「すみません、ちょっと……昔のことを思い出してました」

 「昔のこと?」

 亮は一瞬、答えをためらった。しかし、佐々木の落ち着いた声に背中を押されるように、口を開いた。

 「……父親から言われたことがあって。人の感情なんて理解できないって。あの人は精神科医でした。でも、家族には……ひどい言葉ばかりだった」

 佐々木はうなずきながら、しばらく黙って亮の言葉を待った。

 「俺、あの人のようにはなりたくないって、ずっと思ってました。でも……ふとした時に、自分の中にも似た感情があるような気がして。あの言葉が、いまだに、胸に残ってるんです」

 佐々木は静かに立ち上がり、湯のみを手渡しながら言った。

 「亮くん。私は昔、君のお父さんと少しだけ関わりがあったよ。緑風苑に、まだ研修で来ていた頃、時折ご挨拶にいらしていた。『家ではうまくやれていないけれど、ここに来るとほっとする』って、ぼそっと言ってたのを覚えてる」

 「……え?」

 亮は目を見開いた。

 「君のお父さんも、決して感情がない人間じゃなかった。ただ、たぶん、家庭でどう感情を表せばいいか分からなかったんだろう。医者としては優秀でも、一人の男としては……誰にも寄りかかれなかったのかもしれない」

 それは、亮の中にあった父への呪いのようなイメージを、わずかに揺さぶる言葉だった。

 (あの人も……迷っていた?)

 その夜、亮は自室で古いノートを開いた。学生時代のページに、走り書きのような言葉があった。

 ――「優しさって、なんだ?」

 ――「誰かの痛みを想像することだと思う。でも、父はそれをしなかった。……できなかったのかもしれない」

 自分が書いたはずの言葉に、今さらながら心を揺さぶられる。気づけば、手が震えていた。

 亮はそっと目を閉じた。父の声、あのときの表情、そして……今の自分の手の温かさ。

 (俺は、変われるだろうか)

 目を開けると、窓の外に、静かに灯る街灯の光があった。それは、揺らぎながらも、確かにそこにあった。

第6章 交差する道、つながる手

冷たい秋風が窓を叩く夜、亮は特別養護老人ホーム「緑風苑」のスタッフ控室で、ひとり黙々と記録をつけていた。勤務を終えたばかりのはずなのに、身体よりも心が疲れていた。

「……亮くん、今日はやけに静かだね」
背後から声をかけてきたのは、佐々木施設長だった。亮の父・健一が亡くなってから10年以上が経つ今、彼は亮にとって上司でありながら、ある種の父性のような存在でもあった。

「いえ、ただ……少し考え事をしていて」
亮は曖昧に笑う。だが、佐々木はその奥にあるものを見抜いていた。

「健太くんのことでしょ? 話してくれたよ。訪問先で昔の患者さんと再会したって」

亮は驚いたように顔を上げた。
「兄貴……話したんですね」

「話さずにはいられなかったんじゃないかな。自分の心が揺れたとき、人は誰かとその揺れを分かち合いたくなるものだよ」

その言葉が、亮の胸に響いた。
自分はどうだっただろうか。父に対する怒りや疑問、兄への嫉妬、母への感情──すべてを心に閉じ込めて、誰にも分かち合ってこなかったのではないか。あの夜、父が最後に残した言葉も、未だに心の奥底に沈んだままだった。

その週末、亮は久々に「はなみずき」を訪ねた。健太が働くデイサービスのデイルームには、穏やかな空気が流れていた。

「亮、よく来たな。母さんも涼太さんも、もうすぐ来るよ」

兄の健太は少しだけ驚いた顔をしていたが、すぐに笑った。
数年前までは考えられなかった――この兄弟が同じ空間で、穏やかな笑顔を交わすことなど。

そのとき、デイルームの隅で高齢女性の手を優しく握りながら声をかけていたのが、遠藤志織だった。柔らかくうなずき、相手の言葉を引き出すような、その傾聴の姿勢に、亮は思わず見とれた。

「志織さんって、ああやって相手の空気に寄り添うの、自然にできるんだな……」

亮がぽつりと漏らすと、健太はうなずいた。

「俺も最初はびっくりしたよ。でも、志織さんには聴く力がある。声を荒げることも、無理に盛り上げることもしない。でも、利用者さんたちはいつの間にか安心してる。……なんか、あの人にだけは話せるって空気、あるんだよな」

「……兄貴も、似てきたかもな」

そう言いかけて、亮は自分でも驚いた。兄に対してこんな言葉を自然に口にできたのは、久しぶりだった。

「そっか……ありがとな」

健太は照れたように笑って、利用者の元へ歩いていった。

 

母・真奈美と涼太が現れると、場の空気がさらに柔らかくなった。
かつて父の存在で緊張しきっていた家族が、今は互いを支える灯火のように、静かにつながっている。

「そういえば、兄貴……今度、訪問の件でまたあの人の家に行くんだろ?」

「うん。話したいこともあるし、できれば……過去と向き合うためにも、会ってこようと思ってる」

亮は少し考え込むように頷き、それから言った。
「俺も、そろそろ……父さんのこと、真正面から向き合わないといけないかもしれない」

真奈美がそっと手を重ねてきた。
「大丈夫よ、亮。私も逃げてばかりだった。でも、こうして向き合えるようになったのは……あなたたちのおかげなの」

手と手が触れ合い、記憶と記憶が交差する。
それは確かに、家族の「再生」の始まりだった。

帰り道、亮はふと、父が最後に語ったあの言葉を思い出していた。

「……すまなかった。……父親失格だったな……」

あの言葉の裏に、どれほどの悔いと愛情が込められていたのか。
今なら、少しだけ分かる気がしていた。

交差した道の先で、誰かとつながることで、ようやく灯る記憶がある。

亮は空を見上げ、小さくつぶやいた。
「ありがとう、父さん……もう、大丈夫だよ」

 

最終章 沈まぬ影と、新たな光

数年の時を経て――
季節は春。芽吹きの風に包まれた朝、健太は利用者と笑い合いながらデイサービスの一日を始めていた。介護福祉士としての資格を取得し、管理者という立場になった彼は、現場の空気を何よりも大切にしながら、若手の職員を指導していた。あの時の父と同じように――いや、あの時の父を越えて、人を支えるということの本質に向き合おうとしていた。

一方、亮は相談員として、家族の悩みに耳を傾けていた。自身の過去――父との関係に悩んだ日々があったからこそ、目の前の苦しみを他人事にせず受け止められる。時に涙ぐむ相談者と、じっと静かに向き合うその姿は、彼が「心の通訳者」になった証だった。

母・真奈美は、涼太と暮らす小さな家で、花を飾り、季節の移ろいを楽しむ日々を送っていた。あの日、夫・健一の死を乗り越え、長い葛藤を抱えながらも、再び人生に光を見出すことができた彼女は、今、ようやく「母」としてでも「妻」としてでもない、「一人の女性」としての人生を歩んでいた。

涼太は変わらず誠実で、真奈美の笑顔を何より大切にしていた。家庭という新たな器の中で、年の差を越えた愛が、ゆっくりと根を張っていく。

ある日の夕暮れ、健太と亮は久しぶりに母の家に集まり、涼太を交えて夕食を囲んでいた。ふとした話の流れで、健一の話になる。

「父さんも、もし今ここにいたら、どうしてただろうな」

亮がぽつりと漏らした言葉に、誰もが一瞬沈黙する。だが、次の瞬間、健太が微笑んで言う。

「……きっと、照れくさそうに笑ってると思うよ。『お前たち、やるようになったな』って」

それぞれの胸に、もう怒鳴ることのない父の影が、静かに浮かんでいた。だがそれは、かつての重苦しい影ではなく、今は小さな記憶として彼らを見守る「灯り」になっていた。

真奈美は、そっと庭先に咲いたチューリップに目をやる。あの長く凍てついた冬の時期を越え、やっと咲いた花。遅咲きだったかもしれない。けれど、風にも、雨にも、優しい強さを知っている花――。

「この人生でよかった」と言える日々は、確かにここにある。

エピローグ 希望の家へ

季節は初夏。新潟市の下町に佇む、築40年の古民家がゆっくりと生まれ変わっていた。

 「希望の家」――涼太が立ち上げた小さなデイサービスだ。
木のぬくもりを残した廊下、滑りにくい和紙畳、手すりとスロープのある玄関。
庭先には小さな畑とメダカの池があり、利用者が自由に出入りできる。

「ここでは、支える側も支えられる側もないんです」

 涼太は、壁に掲げる理念を読み上げながら健太と亮に笑いかけた。
そこにいた真奈美も、おやつの準備をしながらふっと笑う。

 ――過去を否定するのではなく、抱えながら生きていく。
その選択の証が、この場所にあるのだと、誰もが感じていた。

そして今日も、「希望の家」には、ゆっくりとした時間と、
誰かのために動く手と手、
そして、明日へ向かう小さな光が灯っていた。

――それは、かつて痛みを知った人々が紡いだ、
優しさという名の未来のかたちだった。

 

あとがき

本作『沈まぬ影 〜再生の光〜』は、現代社会が抱える見えにくい傷を描きたいという思いから生まれました。

家庭の中にある沈黙、介護現場の葛藤、そして父の死を通して再生の道を模索する兄弟の姿――
どれも「特別な誰かの物語」ではなく、読者の皆さんのすぐそばにある現実かもしれません。

この作品では、「人は変われるのか?」という問いに、真正面から向き合いました。
変わることは簡単ではありません。けれど、人と人との関わり、誰かのひと言や手の温もりが、確かに人生を変えるきっかけになる。そんな信念を込めて、物語を紡ぎました。

介護や家族の問題を扱ったフィクション小説として、
「このテーマを描いてくれてありがとう」
「家族のあり方を考えさせられた」
そんな感想が届くような作品になれば幸いです。

そして、今を生きる誰かに、そっと光を届けられる物語であれば――
それが、私の願いです。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

あとがき (追記 令和7年10月3日)

――静かに灯る光をたどって

物語をここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を込めて、このあとがきを綴ります。

『沈まぬ影 〜再生の光〜』は、かつて深い闇に呑まれた家族が、再び光の方へと歩き出す過程を描いた物語です。前作『沈まぬ影』で描かれた崩壊と絶望。その延長線上に、この物語は生まれました。

主人公である藤田健太と亮、そして母・真奈美は、かつて父であり夫であった健一のアルコール依存によって、深い傷を負いました。長い間、言葉にできなかった痛み。日々の生活の中にこびりついた沈黙と無力感。それでも、彼らはそこから目を逸らすことなく、向き合い、少しずつ再生の道をたどっていきます。

健太は介護の現場で、亮は福祉の現場で、それぞれの誰かのために生きるという選択を通して、自らの過去と折り合いをつけていきます。彼らの歩みは、一見すると遠回りで不器用かもしれません。それでも確かに、誰かと手を取り合い、心を重ね、明日を信じて進む姿は、私たち自身の人生にもどこか重なるものがあるのではないでしょうか。

この作品では、新たな登場人物である遠藤志織や佐々木圭吾といった仲間たちも、健太たちの人生に色と深みを与えてくれました。とくに志織という女性の存在は、過去と向き合いながらも未来をあきらめない強さを象徴する人物として描きました。彼女自身もまた、喪失と再生の狭間に生きる一人なのです。

物語の最後、涼太が新しいデイサービス事業を立ち上げ、真奈美が共に働く場面は、彼らが過去を否定するのではなく、抱えながら生きていくという選択をした証です。人は完全には過去から解き放たれない。けれど、その過去を共に見つめる誰かがいるだけで、こんなにも心は軽くなり、前へ進む力が生まれるのだと思います。

私自身、この物語を通して多くのことを学びました。過去にとらわれ、苦しみ続ける人も、愛する人を失った悲しみを抱える人も、それでも生きているというだけで、再生の可能性は必ずあるのだと。

そして、このような作品を共に作り上げてくれる皆さんの存在が、私にとっての灯る光です。

この物語が、誰かの心の奥にそっと寄り添い、少しでも温もりや勇気を届けられたなら、これ以上の喜びはありません。

また、どこかで――
静かに灯る光の物語を、あなたと。

風間 悠

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